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尚巴志スピリッツ
てぃーだブログ › 尚巴志スピリッツ|尚巴志像を建てよう!
三山に分裂していた琉球を統一した 偉大な英雄尚巴志 しかし、そんな尚巴志は、 実は殆ど県民に事績が知られていません。 事実、尚巴志の像は、沖縄県の どこを探してもありません。 尚巴志は、こんな人なんだよーと 説明しようにも現時点では、 その肖像は、個々人の頭の中にしかないのです。 徳川家康や、織田信長が、 複数の像を建立されているのに、、 琉球統一の英雄の像が一つもないのは 可哀想じゃないか!! そのような義憤から、私共は、 尚巴志王像建立期成会を組織し 尚巴志王ゆかりの氏子の皆様の 協力を得て是非にも偉大なる先祖の像を 建てようと活動しおります。 このブログを拝見された方で、 尚巴志像の建立に協力したい そういう方がいらっしゃいましたら コメントを頂けると幸いです。

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Posted by TI-DA at

2015年03月31日

☆琉球の使節 北京で中国人と大喧嘩

後には守礼の国と称えられ、大人しい温厚な人々になった
琉球の人も、15世紀は戦乱の真っ最中で、
凶暴で勇敢な人々と周辺国に恐れられていた時期があります。

西暦1448年1月、正月の挨拶を述べる為に、
北京に上った使者謝花ですが、彼の従者は荒くれ者が多かったのか
四川長河の西の番人達と会同館(外国人用ゲストハウス)の門外で
大喧嘩をします。

この喧嘩は、重傷者や死者が出る大騒ぎになり、
役人は英宗帝に上奏、皇帝の命令で首謀者は逮捕され、
禁裏を騒がせたとして処刑されました。

通常は、このようなトラブルが起きると、朝貢は
禁止になるのですが、この時は大きな外交問題には
なっていません。

という事は、琉球ばかりではなく、中国人側にも
過失があったという事になったのでしょうか、、

※参考文献 首里城王統紀 比嘉朝進 著


  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:21Comments(2)琉球の歴史

2015年03月30日

☆大昔、首里城は金属板で覆われていた。

今の首里城は、木造建築の瓦葺ですが、これは、
1715年に焼けたのを再建したものを参考にして
戦後の1992年に復元されたものです。

それ以前から首里城は、何度か焼けていて、
一番最初に建てられた頃にはどんな姿をしていたかは
実はよく分かっていないのです。

最初に焼けたのは、1456年とされていますが、
その頃の首里城について興味深い記述があります。

それは、1456年に漂流した朝鮮水軍の
梁成の記録によるのですが、それによると、、
首里城の内城には、三層の楼閣があって、板で覆い
錫(すず)を張ってある、この上層に珍宝を収納し
下層には、酒や食物を保存し、中層には王が住んでいる。





この首里城の内城とは首里城本殿の事と考えられます。

楼閣とは首里城正殿であり、それは板張りで、
上から錫の板を張ってあると書いているのです。

つまり、当時の首里城は今のように朱塗りを剥きだしに
しているのではなく、その上から金属の板を張り、
完全防備していた事になります。

内部からの出火は、外の錫板では防げないので、
これは、外からの火矢に対応する為の防備ではないでしょうか?

そうだとすると、550年前の首里城は、
今のように赤く無く、鈍色に輝いた冷たい
印象を持つ城だったかも知れませんね。

参考文献 首里城王統紀 比嘉朝進著  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:26Comments(0)琉球の歴史

2014年11月25日

外交の智恵 白紙の外交文書

西暦1423年、尚巴志は、明に使いを送り、
三山を統一した報告をします。

実際には、南山は細々ながら続いていたのですが、
もはや誰の目にも中山に対抗できないのが、
明らかだったのでややフライングで
天下統一の報告をしたのです。

成祖皇帝は、これを喜び、
尚巴志を王とする為の衣服と
冠を下賜すると連絡しましたが、
その年に成祖は病死します。

ただ、その決定は後継の仁宗皇帝に
引き継がれ、仁宗は内官として
柴山を派遣しました。

ところが、成祖皇帝が死んだとは
知らない尚巴志は、成祖皇帝の長寿を祝う
文書を書いて使者に渡してしまいます。

現地について成祖の死を知った使者は、
大慌てで、文書を破棄して、
新皇帝のお祝いと前帝のお悔やみを述べる
使者に早変わりをして事無きを得たのです。

尚巴志は、これに懲りて、
通常の外交文書の他に白紙で、
印鑑だけを押した文書を持たせ、

緊急事態には、ここに適当な文書を書くように
命令しています。

これを空道(こうどう)といい、
以後の琉球外交の必須アイテムになりました。







  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:52Comments(1)尚巴志戦記

2014年10月08日

奢りに滅んだ武寧王

武寧王は、察度王統の二代目の君主です。

察度王の死後に王位を継ぎますが、次第に政治に飽きて
暴政を敷くようになり、民心が離れたと言われます。

大抵の場合には、こういう暴君話は、
征服者が被征服者を貶める為に
悪行を創作するものですが、
武寧王には、それでもうーんと思うような
悪行が記録されています。

それが、明の皇帝の機嫌を取る為に
琉球の男性を去勢して官宦(かんがん)にして
貢物として送ったという事実です。

これは明実録という記録に残り、
当時の皇帝の永楽帝は、

武寧王の媚びに激怒して、
「罪なきものを去勢してしまうとは
何と、心無い事をするのか
王は反省せよ」

という厳しい言葉と共に
官宦を送り返しているのです。

皇帝の歓心を買う為に
罪なきものを去勢するとは、
流石に武寧王は奢りが過ぎた
と言えるかも知れません、、










  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:09Comments(0)尚巴志戦記

2014年09月22日

・武神として生きた男を狂わせた野心

尚布里(しょう・ふり)?~1454年
尚布里は、佐敷王統の創業者、
尚巴志王の六男として生まれました。

幼き頃より武芸に優れ、南山攻略戦に参加した他
奄美大島の遠征軍の総大将を勤め、
奄美に攻めてきた島津の軍勢を辛うじて退けて
支配を保つなど軍略に才智を発揮します。

1430年後半には、強大化する勝連按司に
対抗する為に江州城を築き、その城主に収まりました。

しかし、偉大な父尚巴志が死去した後、
3代目を継いだ兄、尚忠は5年で死去、
その後を継いだ尚思達も4年で死去すると、
絶えた直系を継いで五男である尚金福が入ります。

ところが、尚金福も5年で逝去すると、
その後に、金福の嫡男である志魯が即位、
その事に布里は大きな不満を持ちました。

「嫡男である尚忠の兄貴や、その息子が
王位を継ぐのは異論はない、、
だが、五男の金福兄と俺にどの程度の
違いがあるというのだ、、
ましてや志魯は若造で大した手柄もない
俺の方が王にはふさわしい筈だ」

そこで、布里は志魯の即位に
異を唱えて自らが王にふさわしいと主張。

それに対して志魯も、
「あんたは、先代の王の弟であり
王位を継ぐ資格はない
みだりに帝王の後を争うのはやめよ」
と反論しました。

怒った布里は江州城の軍勢を集めて
首里に攻めのぼります。

勢い、志魯も王府の軍勢を出し
首里城は攻防戦の的になり、
建物が焼かれ、多くの死者が出ます。

布里は豪傑の才能を発揮して、
志魯の所まで辿りつき、これを
一刀の元に斬り捨てました。

その時、騒然となった城内を見て
布里は、初めて自分が愚かな事をした
事を悟りました。

自分が野心と志魯への憎しみから
起こした事は、佐敷王統の権威を失墜させ
多くの兵を殺し、建物を焼き、
王位継承者を殺しただけ、、、

我に返った布里ですが、自害する気にもなれず
王府の追手をかわし、玉城間切にまで逃げのび
そこで余生を送り、死去したと伝わります。

この布里・志魯の乱は佐敷王統の
屋台骨を揺るがす大事件として、
王朝滅亡の大きな要因になりました。



  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:52Comments(0)尚巴志の血族

2014年09月15日

八重瀬按司に滅ぼされた尚巴志の親戚

大城按司真武は、南山の豪族で
大城城を拠点にしていました。
童名を思武太(うみんた)と言ったそうです。

尚巴志の祖父の鮫川按司が
大城城下で魚売りをしていた頃、
その人物を見抜いて娘を与えたというのが、
この大城真武の父か祖父かであり、
ここから、尚巴志と大城真武は、
遠い親戚という事になります。

ただ、佐敷上城の尚巴志より、大城真武の大城は
名前の通り、大きな城で勢い盛んだったようです。

しかし、それだけにプライドが高く、
南山王国を乗っ取る程の勢力を誇っていた
八重瀬按司とは激しく衝突する事になります。

南山の諸将の中で、大城真武だけが、
八重瀬按司に従わなかったので八重瀬按司は、
これに無理難題をふっかけて
戦に引きづり込もうとします。

最初は自重していた大城真武ですが、
流石に我慢できなくなり、八重瀬按司と断交、、

両者は、南山の覇権を巡り天下分け目
の決戦を行います。

戦争は、当初互角でしたが、
次第に大城軍が優勢に推移し、
八重瀬軍は敗走を開始しました。

しかし、勝ったと思った大城軍の
本陣の旗持ちが喜びの余りに旗を倒してしまい
それにも気づかずうかれていました。

それを見た大城城では、自軍の旗が倒れたので
「戦には負けたのだ」と思いこんでしまうのです。

大城按司の妻子は、城に火を放ち、
幼い息子、真宗を家来に託した真武の妻は、
自害、一族もそれに倣い全滅します。

大城軍は、ここに至って初めて
城が燃えているのに気が付きます。

動揺した大城軍を見た八重瀬按司は、
勝機到来と、逃げている兵を集め直して
再び、大混乱している大城軍に突撃、、

勝っていた大城軍は全滅して、
滅亡してしまいます。


大城真武は、燃える城を拝んでから、
自害してしまいました。

それから、歳月が流れてのち、
息子の真宗は生き残り、
八重瀬按司を父の仇として
尚巴志と共闘して島添大里城を
攻撃して撃破し親の仇を討っています。





  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 17:34Comments(0)尚巴志の血族

2014年09月10日

・尚巴志の合戦跡か?ティーチバナー(古戦場の跡)


南城市佐敷字仲伊保ー花原には、
ティーチバナと呼称されている岩があります。
高さは、5・6メートル、周囲20メートルの石灰岩です。

昔は、この岩の下に多数の人骨が
晒されたまま散在していたそうです。

伝承によれば、人骨は610年前、

ここで、知名之比屋という豪族と
尚巴志が一戦交え、
知名之比屋の軍勢が破れた場所で、
人骨は戦没者のモノ
という中々凄惨な話があります。

別の説では、この岩の下が亡きがらを
風葬する場所として使われていたという説
或いは、身よりがない無縁仏を、
共同墓地として、この岩の下に
安置していたという説も存在します。

屋比久の上屋比久門中や
外間の志茂門中が清明節に
ここを拝んでいた拝所でもあります。

因みにティーチバナーとは、
ティーチバナリ(一つ離れている岩)という
うちなーぐちが訛ったものであると
言われています。





  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:05Comments(0)尚巴志戦記

2014年09月10日

・按司から魚売り、そして按司になった男


鮫川按司(佐銘川按司とも)は、
伊是名島の按司でした。

屋蔵大主の子で、よく島を治めて、
島民の支持を集めていました。

しかし、大飢饉が伊是名島を襲った時に
事態は一変します。

飢饉に苦しんだ島民を救う為に
蔵を開けた鮫川按司ですが、

天候不良は、長らく続く気配だったので、
蔵が空にならないように島民が生活できる
ギリギリの範囲でしか穀物を与えませんでした。

これは餓死者が出るような大飢饉でしたが
そうであればなおの事、
全ての食糧を放出する事は出来ません。

ですが飢えている島民は、
蔵にある穀物が欲しくて
堪りません。
そこで、島民の首謀者は
鮫川按司を殺して蔵を奪おうと計画します。

鮫川按司は、その頃、城で眠っていましたが
胸騒ぎがして起きると
突然、目の前に白い服の老人があらわれ
按司に告げます。

「この島から早く逃げよ、
島民がお前を殺して蔵を奪おうとしている。
そうなれば命を失う事になる、、
そのまま逃げるがよい」

鮫川按司は、老人の言葉を信じて、
着の身着のままで逃げてしまいます。

彼は最初、今帰仁に安住しますが、
そこでも老人が現れ、

「お前は、ここではなく、
南に行けば大成するだろう」

と予言します、鮫川按司は、
予言に従い島を降りていき、
大城城下で、魚売りをしていたそうです。

そこで、貧しいその日暮らしをしていた所、
大城按司に知られ、
その人物を見込まれて娘を与えられます。

なんだか話が上手過ぎる感じですが、
これが事実であるとすれば、

鮫川按司は、自身が元々は南山王の家系である
という事を証明するなんらかの証を
持っていたのかも知れません。

そして、大城按司のバックアップを受けて
佐敷に城を築いてここで鮫川按司として、
独立したとあります。




彼の息子が、苗代大親、後の尚思紹です。
つまり彼は尚巴志の祖父
という事になっています。

  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 22:47Comments(0)尚巴志の血族

2014年09月10日

佐敷王統の元祖 屋蔵大主(やぐらうふすー)

屋蔵大主は、尚巴志から遡る事、3代前の曾祖父です。

彼の出自には、様々な説がありますが、その一つには、
南山王国の亡命貴族であるという話があります。

それによると、屋蔵大主は、高嶺与座城主である
大里按司の長男として生まれています。

しかし、乱世の習いで、彼の父は
親戚の南山大里王に殺害されます。

次は自分の番だと危惧した彼は、
船を使って伊平屋島に逃亡。
そこの屋蔵海岸から上陸し
字我喜屋の上里に居住して百姓をしたようです。

彼の田畑は、毎年豊作で、
日に日に富んでいったと伝承にはあります。

ですが、亡命者が単身で農業が出来る程に
離島の生活は簡単ではないのではないかと想像します。

恐らくは、南山から逃げる際に、
幾らかかの財産と従者を従えて
伊平屋島に到着したのではないでしょうか?

この財産で、島民を雇用して、
従者も使い大規模に農業を興した。

だからこそ、島民の信頼を集め、
またたく間に島の実力者になった
そういう事ではないかと思います。

屋蔵大主は、嘉陽岳の頂上に
城を構えて伊平屋按司になり、

息子の鮫川按司を伊是名島に派遣して、
伊是名城主にします。

屋蔵大主は、本島に帰還する事なく、
鮫川大主が16歳の時に死去したようです。




  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:05Comments(0)尚巴志の血族

2014年09月09日

薩摩の琉球侵略の根拠とは?

どのような事にも、大義名分というものがあり、
それは侵略のようなものも例外ではありません。

1609年、薩摩、島津氏が琉球に兵を出したのも、
「徳川幕府に挨拶にも来ない無礼な琉球を懲らしめる」
というのが表向きの理由でした。

実は島津は、1441年に室町幕府の将軍
足利義教(よしのり)から、褒美として
琉球を与えられたという話を
琉球討伐の理由としています。

足利義教には、大覚寺義昭(よしあき)という
弟がいましたが、これが謀反を起こしました。

この時に島津忠国が、五将を派遣して、
義昭を討ち、その首を京都の義教まで
送り届けたのです。

義教は、これに気を良くして
忠国に琉球を与えたというのが
島津氏が主張した事で、
これを嘉吉附庸説(かきつ・ふようせつ)と言います。

嘉吉は年号で、附庸とは(保護する)という意味です。

ただ、今日ではこれは、元ネタが、
島津氏の文献のみで、同じ事を記した
幕府の公文書が存在しない事から、
琉球侵略を正当化したい島津氏の
捏造であるとされています。



仮に、足利義教が、琉球を与えようと
言った所で当時の琉球は、
室町幕府に服従していたわけでもないので
全く、琉球を征服できる根拠にはならないのです。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:40Comments(0)琉球の歴史