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尚巴志スピリッツ
てぃーだブログ › 尚巴志スピリッツ|尚巴志像を建てよう! › 尚巴志の血族 › ・武神として生きた男を狂わせた野心
三山に分裂していた琉球を統一した 偉大な英雄尚巴志 しかし、そんな尚巴志は、 実は殆ど県民に事績が知られていません。 事実、尚巴志の像は、沖縄県の どこを探してもありません。 尚巴志は、こんな人なんだよーと 説明しようにも現時点では、 その肖像は、個々人の頭の中にしかないのです。 徳川家康や、織田信長が、 複数の像を建立されているのに、、 琉球統一の英雄の像が一つもないのは 可哀想じゃないか!! そのような義憤から、私共は、 尚巴志王像建立期成会を組織し 尚巴志王ゆかりの氏子の皆様の 協力を得て是非にも偉大なる先祖の像を 建てようと活動しおります。 このブログを拝見された方で、 尚巴志像の建立に協力したい そういう方がいらっしゃいましたら コメントを頂けると幸いです。

2014年09月22日

・武神として生きた男を狂わせた野心

尚布里(しょう・ふり)?~1454年
尚布里は、佐敷王統の創業者、
尚巴志王の六男として生まれました。

幼き頃より武芸に優れ、南山攻略戦に参加した他
奄美大島の遠征軍の総大将を勤め、
奄美に攻めてきた島津の軍勢を辛うじて退けて
支配を保つなど軍略に才智を発揮します。

1430年後半には、強大化する勝連按司に
対抗する為に江州城を築き、その城主に収まりました。

しかし、偉大な父尚巴志が死去した後、
3代目を継いだ兄、尚忠は5年で死去、
その後を継いだ尚思達も4年で死去すると、
絶えた直系を継いで五男である尚金福が入ります。

ところが、尚金福も5年で逝去すると、
その後に、金福の嫡男である志魯が即位、
その事に布里は大きな不満を持ちました。

「嫡男である尚忠の兄貴や、その息子が
王位を継ぐのは異論はない、、
だが、五男の金福兄と俺にどの程度の
違いがあるというのだ、、
ましてや志魯は若造で大した手柄もない
俺の方が王にはふさわしい筈だ」

そこで、布里は志魯の即位に
異を唱えて自らが王にふさわしいと主張。

それに対して志魯も、
「あんたは、先代の王の弟であり
王位を継ぐ資格はない
みだりに帝王の後を争うのはやめよ」
と反論しました。

怒った布里は江州城の軍勢を集めて
首里に攻めのぼります。

勢い、志魯も王府の軍勢を出し
首里城は攻防戦の的になり、
建物が焼かれ、多くの死者が出ます。

布里は豪傑の才能を発揮して、
志魯の所まで辿りつき、これを
一刀の元に斬り捨てました。

その時、騒然となった城内を見て
布里は、初めて自分が愚かな事をした
事を悟りました。

自分が野心と志魯への憎しみから
起こした事は、佐敷王統の権威を失墜させ
多くの兵を殺し、建物を焼き、
王位継承者を殺しただけ、、、

我に返った布里ですが、自害する気にもなれず
王府の追手をかわし、玉城間切にまで逃げのび
そこで余生を送り、死去したと伝わります。

この布里・志魯の乱は佐敷王統の
屋台骨を揺るがす大事件として、
王朝滅亡の大きな要因になりました。

・武神として生きた男を狂わせた野心



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Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:52│Comments(0)尚巴志の血族
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