三山に分裂していた琉球を統一した
偉大な英雄尚巴志
しかし、そんな尚巴志は、
実は殆ど県民に事績が知られていません。
事実、尚巴志の像は、沖縄県の
どこを探してもありません。
尚巴志は、こんな人なんだよーと
説明しようにも現時点では、
その肖像は、個々人の頭の中にしかないのです。
徳川家康や、織田信長が、
複数の像を建立されているのに、、
琉球統一の英雄の像が一つもないのは
可哀想じゃないか!!
そのような義憤から、私共は、
尚巴志王像建立期成会を組織し
尚巴志王ゆかりの氏子の皆様の
協力を得て是非にも偉大なる先祖の像を
建てようと活動しおります。
このブログを拝見された方で、
尚巴志像の建立に協力したい
そういう方がいらっしゃいましたら
コメントを頂けると幸いです。
2014年11月25日
外交の智恵 白紙の外交文書
西暦1423年、尚巴志は、明に使いを送り、
三山を統一した報告をします。
実際には、南山は細々ながら続いていたのですが、
もはや誰の目にも中山に対抗できないのが、
明らかだったのでややフライングで
天下統一の報告をしたのです。
成祖皇帝は、これを喜び、
尚巴志を王とする為の衣服と
冠を下賜すると連絡しましたが、
その年に成祖は病死します。
ただ、その決定は後継の仁宗皇帝に
引き継がれ、仁宗は内官として
柴山を派遣しました。
ところが、成祖皇帝が死んだとは
知らない尚巴志は、成祖皇帝の長寿を祝う
文書を書いて使者に渡してしまいます。
現地について成祖の死を知った使者は、
大慌てで、文書を破棄して、
新皇帝のお祝いと前帝のお悔やみを述べる
使者に早変わりをして事無きを得たのです。
尚巴志は、これに懲りて、
通常の外交文書の他に白紙で、
印鑑だけを押した文書を持たせ、
緊急事態には、ここに適当な文書を書くように
命令しています。
これを空道(こうどう)といい、
以後の琉球外交の必須アイテムになりました。
三山を統一した報告をします。
実際には、南山は細々ながら続いていたのですが、
もはや誰の目にも中山に対抗できないのが、
明らかだったのでややフライングで
天下統一の報告をしたのです。
成祖皇帝は、これを喜び、
尚巴志を王とする為の衣服と
冠を下賜すると連絡しましたが、
その年に成祖は病死します。
ただ、その決定は後継の仁宗皇帝に
引き継がれ、仁宗は内官として
柴山を派遣しました。
ところが、成祖皇帝が死んだとは
知らない尚巴志は、成祖皇帝の長寿を祝う
文書を書いて使者に渡してしまいます。
現地について成祖の死を知った使者は、
大慌てで、文書を破棄して、
新皇帝のお祝いと前帝のお悔やみを述べる
使者に早変わりをして事無きを得たのです。
尚巴志は、これに懲りて、
通常の外交文書の他に白紙で、
印鑑だけを押した文書を持たせ、
緊急事態には、ここに適当な文書を書くように
命令しています。
これを空道(こうどう)といい、
以後の琉球外交の必須アイテムになりました。
Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:52│Comments(1)
│尚巴志戦記
この記事へのコメント
時間があるときなら、いつでもさー!
Posted by 下地正紀 at 2014年11月25日 02:29