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尚巴志スピリッツ
てぃーだブログ › 尚巴志スピリッツ|尚巴志像を建てよう!
三山に分裂していた琉球を統一した 偉大な英雄尚巴志 しかし、そんな尚巴志は、 実は殆ど県民に事績が知られていません。 事実、尚巴志の像は、沖縄県の どこを探してもありません。 尚巴志は、こんな人なんだよーと 説明しようにも現時点では、 その肖像は、個々人の頭の中にしかないのです。 徳川家康や、織田信長が、 複数の像を建立されているのに、、 琉球統一の英雄の像が一つもないのは 可哀想じゃないか!! そのような義憤から、私共は、 尚巴志王像建立期成会を組織し 尚巴志王ゆかりの氏子の皆様の 協力を得て是非にも偉大なる先祖の像を 建てようと活動しおります。 このブログを拝見された方で、 尚巴志像の建立に協力したい そういう方がいらっしゃいましたら コメントを頂けると幸いです。

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Posted by TI-DA at

2014年09月07日

北山王国の群像

比較的に影が薄い南山王国に対して、
北山王国はキャラクターが濃い人物が多いようです。
一番は、北山王である攀安知で、
彼は歴史書「中山世譜」に
暴虐無道なれど武芸絶倫と書かれています。

また、攀安知は千代金丸という宝刀と所有し、
大和の鎧直垂で完全武装、
最期の最期まで中山兵と奮戦して
最期を迎えています。

彼は、中北山王国を滅ぼした羽地按司が建国した
後北山王国の3~4代目に当たります。
歴史書では、暴君ですが、歴代の北山王では
最多の11回進貢船を出しているなど、
国頭地域の発展に寄与しました。

しかし、その有能さ故に尚巴志に睨まれ、
滅ぼされてしまったとすれば皮肉な話です。

攀安知の片腕として知られるのが
豪傑、本部平原(むとぅぶてーばる)です。
彼も武芸絶倫ですが、賄賂に弱く、
尚巴志の調略に応じて攀安知を裏切ります。

しかし、裏切った直後に攀安知の前に進みでて、
「お前が暴虐だから俺は寝返った」
と宣言してしまい、
逆上した攀安知に真っ二つにされてしまうなど、
正直なんだか、間が抜けているんだか分からない部分も、、

平敷大主は、妖怪退治など
武芸以外の部分で有名な人物です。
彼は討ち死にせず、落ちていき、
うるま市の平敷屋まで落ちのびて
そこで平敷屋村の根屋(本家)
を起こしたと言われています。











  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:28Comments(0)尚巴志戦記

2014年09月03日

見事な石垣はハリボテだった




尚巴志と父、思紹が住んだ、南城市佐敷の、佐敷上城には、
数多ある琉球の城でも希にみる工夫があります。

それが張り石状石列という、特殊な石積みです。

とても平たく言うと、佐敷上城の石垣は、
薄い石を貼り付けただけの
タイル張りだったのです。

これでも、ただの土塁よりは、長雨などによる
地盤の崩壊に耐えられるのですが、、
尚巴志の狙いは別にありました。

それは、遠目にはただのタイル張りの
「なんちゃって石垣」も立派な城壁に見える事です。

やはり、グスクを築くのにはお金が掛かりますし、
それには支配地の百姓を動員しないといけません。

そこで、見た目だけは立派に見える
ハリボテの石垣を速成築城して
経費を安く上げたのです。

敵が接近しない限りはハリボテも立派な
石垣ですから、ちゃんと抑止効果はあったのでしょう。

同じような工夫は、あの織田信長が行って
敵を威圧する為に使っています。

尚巴志のアイデアは150年以上
日本の先を行っていたのです。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 17:16Comments(0)尚巴志戦記

2014年09月01日

・南山の華麗なる一族、尚巴志の前に散る

琉球には三山時代と呼ばれた、中山、南山、北山に
分裂していた時代があります。

その中でも南山は複雑で、最初に南山王になった
大里按司の系統が汪英紫(おうえいじ)と呼ばれる
部下、或いは血族に乗っ取られます。

それは、1390年の終わりですが、
その立役者になったのが、汪英紫です(イラスト中央)

しかし、南山を攻略したのも束の間
汪英紫は寿命が尽きて死亡します。

その汪英紫は、跡継ぎとして、
次男の汪応祖(おうおうそ)に王位を譲ります。

そのゴタゴタを突いて佐敷の尚巴志は
汪英紫の三男、屋富祖(やふそ)を
1402年大里城に破り、
南山の北半分を支配します。

ですが、汪応祖は、その混乱を収拾し、
南半分の按司達を纏めていきます。

ところが、それを面白くないと
考えていた人物がいました。
汪英紫の長男、達渤斯(たぶち)です。

粗暴で武勇に優れた達渤斯は、
王位を継げなかった事を恨み、
弟である汪応祖を謀殺し、
自らが南山王であると宣言します。

ですが人望のない達渤斯を南山の按司は
認めず、汪応祖の子の他魯毎(たろまい)
を立てて、これに対抗し、
南山は内乱状態になります。

尚巴志は、この内乱に介入し、
制御しやすそうな他魯毎側につき
これを援助したので、
達渤斯は、敗れました。




最期に残った他魯毎ですが、
1429年には、北山を滅ぼして
日の出の勢いの尚巴志に討たれてしまいます。


こうして、南山王国の覇権を握ってから
30年少々で、汪英紫の一族は滅亡してしまうのです。
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:43Comments(0)尚巴志戦記

2014年09月01日

・琉球王朝に深く関わった臨済宗の僧侶



お坊さんというと、虫も殺さない三蔵法師のような
イメージがありますが、それは江戸時代以降の事です。

戦国の頃には、太源雪斎、天海僧上、安国寺恵瓊というような
名だたる高僧が戦国武将に仕えて虚々実々の駆け引きをしました。

当時の坊主は、教養豊かで、和漢の兵書に通じ、
外交文書も書く事が出来る超人だったのです。

徳川家康も、天海僧上や以心崇伝のような僧侶を多用し
天下取りの方策を練っていたと言われます。

家康の時代から遡る事、150年、琉球にも、
大和から多くの僧侶が渡ってきていました。

その代表的な高僧が芥隠承琥(かいいん・しょうこ)です。

彼は臨済宗の僧侶として、1450年に琉球に入り
佐敷王統6・7代尚泰久・尚徳王に仕えています。

今も残る円覚寺の開祖でもありました。

もちろん、臨済宗の布教ばかりでなく、
尚泰久を脅かすライバルの力を削ぐような
計略の相談にも預かった事でしょう。

芥隠承琥は、佐敷王統の滅亡後も、
金丸に取り入るなどクーデターにも
関与が囁かれるダークな部分もある人物です。

さて、この芥隠承琥は、臨済宗の僧侶なのですが、
家康のブレーンだった以心崇伝も臨済宗の僧侶、、



しかも両者は、100年以上も時代が
離れているとは言え、同じく
京都南禅寺で修行した人物なのです。

徳川家康の政策には、参勤交代や、
大名に河川改修や築城を命じて、
力を削ぐというような戦略など、、
非常に佐敷王統の計略に似た部分が多く見られるのです。

もしかして、以心崇伝のノウハウには、
先輩の芥隠承琥の残した琉球での計略が
伝承されていたのではないでしょうか、、、  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:43Comments(0)琉球の歴史琉球と日本の関わり

2014年08月30日

・意外に短い進貢船の日数

進貢船が、福州に到着するまで、或いは那覇に到着するまで、
どの程度の日数が掛かったと思いますか?

距離を見ると、かなり遠い感じがするので10日とか、
30日という回答が多いのですが、実はそれより短く
最短だと5日、一番短くて4日という記録があります。

航路は、福州を出て、今の尖閣列島の間をくぐり抜け
久米島の付近を通過して那覇に入っていました。

初期の進貢スタッフは中国人が多かったようですが、
中期以降には久米島の人が航海スタッフとして
乗り組んでいた事が史料から分かります。

「福州の船乗りは尖閣周辺の海域に不慣れだが、
久米島から船乗りが迎えの接貢船で来たので安心だ」
というような記録があるからです。




彼等は羅針盤を駆使し風を掴まえて
進貢船の安全で定期的な運航に多大な貢献をしたのです。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 02:35Comments(0)琉球の歴史

2014年08月28日

・徳川幕府の手法に酷似?佐敷王統のライバル対策

徳川家康は、江戸に幕府を開くと有力な外様大名の力を削ぐ為に
名古屋城の築城や、河川の工事などの公共工事を課します。

こうして、幕府はライバルの力を削いでいたのです。
下手に武力で滅ぼすより、公共工事や軍事面でコキ使い
経済力を疲弊させた方が得とは上手く考えたものです。

実は佐敷王統も、護佐丸という有力武将の経済力を削ぐ為に
同じような手法を採用しています。

それが、座喜味城の築城と世界遺産、中城城の築城を
護佐丸に課した方法です。

最初に、今帰仁城に赴任し北山監守になった護佐丸ですが、
善政を敷いて勢力を増強させる護佐丸に、
尚巴志は、国替えを命じ、座喜味城を築城させます。

ようやく座喜味城を築城したのも束の間
10年も経過しない間に尚巴志は、
「勝連按司に備える為に中城に移れ」と命令を出すのです。

中城城は、当時存在してはいましたが、
規模が小さく、そのままでは防備に不安があるので、
護佐丸は、20年を掛けて中城城を拡張します。

もちろん、この間の費用は全て護佐丸の自腹で、
断ろうものなら、直ちに滅ぼされた事でしょう。


一見すると、尚巴志と護佐丸には、
主君と家来の麗しき友情があったように思えますが、

その背面では、力を削ぎたい佐敷王統と、
ならぬ堪忍をして、ひたすら自重している
護佐丸の苦しい胸中があったのです。
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:52Comments(0)尚巴志戦記

2014年08月26日

・室町幕府に見る、面倒臭い冊封手続き

足利義満は、日明貿易に熱心だった将軍として知られています。
彼は南北朝の争乱で弱った国力を貿易の利益で補い
室町幕府の黄金期を築きあげます。

しかし、彼が日明貿易を開始するまでは、そう簡単な
道程ではありませんでした。

義満が日明貿易を打診する1380年の6年前、
1374年、明の使者楊載は、九州に寄港し、
当時、九州全域を支配した南朝方の懐良(かねなが)親王を
日本国王として冊封していました。

実際には、その頃、懐良親王は北朝の武将、今川了俊に追われ
九州の覇権を失っていたので、楊載は親王には
会えなかったのですが、冊封は有効とされていたのです。
以降、九州の大名は、日本国王 良懐の名前で
明に船を出し交易を繰り返していました。

そこに、北朝方の足利義満が貿易を打診してきたのです。
それに対して明王朝は、

①日本国王は良懐である、帝国は1国に二人の王は
認めないので、冊封は許可できない。

②義満は、太政大臣であり、日本天皇の陪臣である。
帝国が交渉するのは王のみであり、王の家来とは交渉できない。

大きく二つの理由により、明は義満との交渉を拒否します。

義満は、それでも諦めず、1394年には、
太政大臣の位を辞めて出家し、道義と名乗り
立場上は朝廷から離れてフリ―になります。

そして、1401年、再び明王朝に使節を送り
今度は、日本国准三后源道義の肩書で
冊封を求めています。

当時の明は、2代建文帝の時代であり、
南北朝の争乱も1392年に統一を迎え、
室町幕府の権力も盤石になった事を踏まえ
ようやく、1404年には冊封許可がおります。

最初に使者を出した時から24年の歳月が
経過していました。

こうして足利義満は、日本国王 源道義として
明王朝から冊封を受けるのです。

ですが、冊封は、こうして見ると
一度こじれると、かなり大変である事が分かります。





琉球が冊封に対しては非常な神経を使った理由が
室町幕府の苦労からも見て取れます。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:22Comments(0)日本史の中の琉球

2014年08月26日

・混乱の元 第一尚氏と第二尚氏

琉球史を複雑にしているのは、
第一尚氏と第二尚氏という数字の連続性がある
二つの王朝の存在です。

しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、
歴史学的に根拠がある事では全くありません。

そもそも、この二つの王朝には、
血統の共通性も無ければ
王朝を構成している人物も全く別、、
赤の他人王朝なのです。



では、どうして赤の他人王朝に、
第一、第二という連続性がある数字が振られたのか?
それは、第二尚氏の始祖である金丸が、
第一尚氏の姓である「尚」を勝手に名乗ったからです。

金丸は中国から冊封を受けて王になるに際し
自分がクーデターを起こして以前の王朝を
滅ぼした事を中国に責められるのを恐れました。

そこで、先代の尚徳王の息子が自分と偽り
尚姓を継いで、シレッと王になったのです。
尚徳王は、29歳とも40歳とも言われますが、
その時に金丸は54歳でした。

息子が父親より年上とは前代未聞です。

この金丸の方便で後世の歴史家は
混乱し、全く血縁の無い
二つの尚氏を第一、第二と分けてしまったのです。

これは、豊臣家を滅ぼして天下を取った
徳川政権を第二次豊臣政権と呼ぶ位に
トンチンカンな事です。

この紛らわしさを解消する為に
第一尚氏は、創建者の尚巴志の
故郷、南城市佐敷から取り

「佐敷王統」

そして、佐敷王統を滅ぼした、
金丸の王統を金丸の出身地である
伊是名島から取り、


「伊是名王統」と呼ぶ事にします。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 10:20Comments(0)琉球の歴史

2014年08月19日

・琉球にも軍隊が存在した。

琉球王国には軍隊が無かったというイメージが
ありますが、これは誤ったイメージです。

17世紀初頭まで、琉球王国には、
外征が可能な組織化された軍隊があり
12のヒキと呼ばれる旅団から構成されました。

ヒキは、一人の勢登(セド)と呼ばれる隊長、
そして、筑登之(チクドノ)と呼ばれる副長、
最期に家来赤頭(ゲラエアクカベ)と呼ばれる
兵卒250名から構成される戦闘集団です。

それぞれのヒキは、進貢船の乗組員で構成されます。
琉球は進貢船を12隻保有していたので、
250名×12で、3000名の常備軍が組織されました。

さらにヒキは、4隊1000名づつに分けられ
三司官にそれぞれ率いられていました。

ヒキは或る時には、貿易スタッフとして海外に
或る時には、役人として首里城で業務し、
そして戦闘時には兵士として機能していました。

実際に、奄美大島や八重山を琉球が
侵略した時には、2000名からのヒキが
動員されていて、これらが、寄せ集めの臨時軍ではない
という事が分かってきています。

薩摩との戦いでもヒキは配置され、
実戦にもなっています。

薩摩に侵略を受けた後は、
薩摩の安全保障を利用する形で、
軍隊を維持する必要が消え

ヒキは形だけが残って形骸化していきます。

冒頭の勢登(セド)や筑登之は元は隊長や
副長の名前だったのが役職名になっていきました。

ともあれ、琉球=文弱の国というのは正しくなく、
17世紀初頭までは、戦争もできる常備軍を
保有した武力のある王国だったのです。

  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:23Comments(0)琉球の歴史

2014年08月13日

・琉球は一日にして成らず


琉球時代というと移動は、どこでも歩き、身分の高い人は
王朝絵巻のように中国風の輿に乗っている。
そんなイメージかもしれませんが、それは大きく違います。
写真で書かれた青いラインは、宿道(すくみち)と呼ばれます。
宿は駅で、昔は簡単な宿泊施設や代わりの馬を置いた場所
1422年から、1439年までの尚巴志王の時代
それまで、未整備だった琉球の道路は大きく切り開かれ
現在の県道や国道に繋がる陸の大動脈が築かれました。
赤い凸は、主要なグスクで、勝連城、今帰仁城、
浦添城、伊波城、首里城、大里城、佐敷城などが
見事に宿道にリンクしているのが分かります。
戦乱の時代には、この宿道を馬に乗った伝令が、
一日に何十回と往複していて、
当時としては、素晴らしい速さで情報を首里まで
届けていました。
尚巴志王の軍勢は、迅速にして神出鬼没でしたが、
その背後には整備された宿道の存在があったのでした。

  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 11:20Comments(0)尚巴志戦記