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尚巴志スピリッツ
てぃーだブログ › 尚巴志スピリッツ|尚巴志像を建てよう!
三山に分裂していた琉球を統一した 偉大な英雄尚巴志 しかし、そんな尚巴志は、 実は殆ど県民に事績が知られていません。 事実、尚巴志の像は、沖縄県の どこを探してもありません。 尚巴志は、こんな人なんだよーと 説明しようにも現時点では、 その肖像は、個々人の頭の中にしかないのです。 徳川家康や、織田信長が、 複数の像を建立されているのに、、 琉球統一の英雄の像が一つもないのは 可哀想じゃないか!! そのような義憤から、私共は、 尚巴志王像建立期成会を組織し 尚巴志王ゆかりの氏子の皆様の 協力を得て是非にも偉大なる先祖の像を 建てようと活動しおります。 このブログを拝見された方で、 尚巴志像の建立に協力したい そういう方がいらっしゃいましたら コメントを頂けると幸いです。

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Posted by TI-DA at

2014年08月12日

佐敷王統の家系図



  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 02:02Comments(0)尚巴志の血族

2014年08月11日

・千代金丸は、騎兵用の刀

北山王攀安知の愛刀は、千代金丸と言い、
銘はありませんが、九州の筑紫で造られたと
考えられています。

こちらは、刀身は紛れもない日本刀ですが、
装飾は琉球独自のものです。

そのままを使わないというのは、
つまり、日本刀の装飾があまり気に入らない
という事かも知れません。

ここにも琉球人の独自の美的感覚が
垣間見えて面白いです。

さて、珍しい事には、千代金丸は日本刀には珍しい
片手で扱えるタイプである事です。

片手のタイプは中国の剣に多く、
彼等は盾を片手に戦っていました。

日本刀に鍔があるのは、相手の攻撃で
手を負傷しない為の工夫です。

もしかすると、攀安知も盾を片手に
中山の軍勢と戦っていたかも知れません。

あるいは、騎兵用の刀として、使い
馬で疾駆しながら、中山兵を斬り倒していたのかも
実は馬上で、武器を振るうのは難しいのですが、
武芸絶倫と称えられた攀安知なら出来たかも知れません。




写真は尚王家伝来の千代金丸  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:57Comments(0)尚巴志戦記

2014年08月11日

・覇王の弟、南山城攻略に散る 平田大比屋(ひらた・うふひや)


平田大比屋は、思紹の三男で、尚巴志の弟にあたります。

大変な伊達男でしかも武勇絶倫だったようで、
陣羽織の背中に孫姓尚家の家紋を染め抜いていました。

1416年の北山攻略戦にも参加し、孫姓尚家の家紋を旗頭に馬に跨り
意気揚々と戦地に向かったと古老の言い伝えにはあるようです。

しかし、1429年の南山攻略戦では、流れ矢が当たり戦死、、
それを尚巴志は、ことのほか悲しみ、子供が居なかった平田大比屋に

息子の佐敷王子を後継ぎとして与えたとあります。(異説あり)


  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:45Comments(0)尚巴志の血族

2014年08月10日

日本製の鎧で戦った琉球の武者

琉球の戦国時代は、1315年頃から、1429年まで続きました。
さて、そんな琉球の武将達はそんな姿で戦っていたのでしょうか?

農民一揆のような、筵の旗に鋤や鍬、鎌で戦っていた?
いえいえそうではありません、、

実は首里城や南城市の玉城グスクからは、
当時の鎧が出土していますが、
そこからは日本製の鎧が出土しているのです。

しかも、ただ輸入していたばかりではありませんで、
少々造りは大雑把ながら自作もしていました。

では、どうして琉球が日本の鎧を輸入していたのか?
それは乾燥した大陸気候と亜熱帯の琉球の違いでしょう。

大陸の鎧は全身を覆うタイプでひどく暑くなります。
一方の日本は、高温湿潤ですから、
鎧にも風通しの工夫があるのです。

気候的には日本に近い琉球は、
現実的な選択から日本の鎧を選んだのです。






一方で武器はそれこそチャンプルーで、
青龍刀から、日本刀、槍まで様々でした。

  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:05Comments(0)琉球の歴史

2014年08月08日

・琉球が奄美制圧にこだわった理由

硫黄鳥島は、地図で見てもらうと分かる通り、
沖縄本島の北に位置する火山島です。

ここは、古くから硫黄の産地として知られ
すでに1372年の明実録には、名前が出てきます。

察度王の時代以前には、人が住みつき、
それと同時に硫黄の採掘が行われました。

実は中国では、硫黄は殆ど取れず、
戦争で必要な火薬の原料として、
硫黄鳥島の硫黄は必要不可欠でした。

実際に、琉球は増減はあれ、
1372年から琉球処分の1879年まで、
貢物として送り続けました。

ここで、取れた硫黄は、泊港に運搬され、
崇元寺の西にあった硫黄蔵に納められていました。

第一尚氏の頃から、琉球は奄美や喜界島の
制圧に多大な戦費を費やしていますが、
その理由としては、硫黄鳥島の安定統治があります。




1609年の薩摩侵略以降、
琉球は、本島以北の領地を失いますが、
進貢貿易に不可欠の為に硫黄俊島だけは、
琉球王府に残されています。
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:23Comments(0)琉球の歴史

2014年08月06日

琉球独自の貨幣を発行した王達

 昔から、貨幣経済がスタートした地域では、
金属の貨幣が発行されていました。

古代ローマ皇帝の横顔を刻んだ銀貨、金貨から、
中国皇帝の名前を刻んだ、永楽銭、
日本では年号を刻んだ、寛永通宝などが有名です。

実は琉球でも、対外貿易の発展が著しかった
15世紀の後半、2名の佐敷王統の王によって、
琉球独自の貨幣が鋳造され発行されました。

それが、世高通宝、そして、大世通宝です。







世高通宝は、佐敷王統、6代、尚徳王が、そして、大世通宝は、
佐敷王統5代、尚泰久王の命令で鋳造されました。

この二人の王の在位期間は、併せても12年に過ぎず、
直ぐに金丸のクーデターで佐敷王統が倒される事もあり、
二種類の貨幣の総数は多くはありません。

しかし、両者が琉球は独立国であるという認識を持ち
そのシンボルとして貨幣を発行していたのは、
特筆に値する事だと思います。
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 01:26Comments(0)尚巴志の血族

2014年08月04日

・尚巴志はチビだったのか?

後世の歴史書では、尚巴志は、身長150センチに満たない
チビであったと記録されています。

故に佐敷の小按司と親しまれたとあるのですが、
これは果たして事実なのでしょうか?

首里池端町にある天山陵には、尚巴志の柩を乗せていた
台座が存在しているのですが、それは大きさが、
浦添ようどれの英祖王の柩と殆ど同じです。

英祖王がチビであったという記録はないので、
尚巴志の身長は、英祖王と同じ位と考えられ
びっくりするような長身でなくても、
平均身長はあったのではないか?と思われます。

そこで、疑問が生じます。

では、何で小按司と呼ばれていたのかです。

実は、この小按司、尚巴志の存命中は、
子按司だったという可能性があるのです。

尚巴志の父、思紹は20歳の巴志に家督を譲り
隠居をしたのですが、この頃は40代の壮年です。

二人は共同作業で天下取りに邁進するので、
思紹は、隠居したとは言え、表に出てくる事も
多かったと思われるのです。

つまり、佐敷上城には、按司が二名存在した
という事になるのです。

そうなると、二人を呼び分けないといけない
という必要が生じます。

そこで、巴志の事は子按司と呼んで、
思紹と呼び分けしたのではないでしょうか?

それから時代が経過するに従い
子按司は、小按司に転化していき、
尚巴志はチビであったという俗説が生まれた
そういう事ではないかと思います。




写真は、天山陵の尚巴志の台座、

  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 17:52Comments(0)尚巴志戦記

2014年08月01日

・琉球史上最大の謎、消された国王「中和」

1469年4月、「暴君」尚徳王は29歳の若さで死に
群臣は、その8歳の息子を8代国王に立てようとしたが、
重臣金丸を推す一派にクーデターを起こされて
尽くが殺されたと言われています。

しかし、実際の尚徳王は40歳で死去し、
その王子は4名いて、長男は15歳に達していた
そういう記録が残っているのです。

その一つの資料は、1462年の李朝実録で、
琉球に漂着した肖徳誠が帰国後に残した証言記録です。

「尚徳王は、32歳で子供は4名、長男は15歳位、
城を出入りの時は、10名程度の兵士が付き従う
他の王子は幼い、王子と王は別々に暮らしている。」

これだけでも、1462年の段階で、尚徳王は、
32歳であり、子供は4名、しかも長男は15歳で、
王位の継承者として10名の兵士が警護に就いていた
という事が分かります。

そして、もう一つ幻の国王に関する記録が、
朝鮮の官僚が編んだ記録「海東諸国記」に登場するのです。

朝鮮に渡った禅僧 自端西堂は、朝鮮の官僚、
申叔舟にこう証言しています。

「新しき王の名は中和という、年は十六歳、
まだ冊封は受けていない、宗姓丹峰殿の主女を娶っている。
王弟の名は於思(ウシ)といい十三歳、
末弟は栽渓(さいけい)と言い十歳である。」

海東諸国記は、1443年に朝鮮国王成宗の命令で、
編纂がはじまり、1471年に完成しています。

王子が李朝実録では4名が3名になっているのは、
長男が死に、次男が王になったからかも知れません。

自端西堂は、冊封は受けていないが、
中和は王であると告げていて、ここに
琉球の歴史からは抹殺された佐敷王統、
幻の8代国王「尚中和」が確認されるのです。

ここで金丸のクーデターを考えると
金丸は、尚徳王の暴政を憂いた人々に立てられた
というような聖天子の伝説ではなく、
老齢に達した自分の寿命が尽きる前に
政権基盤の不安定な若き国王を討とうという
金丸の激しい野心が垣間見れます。

それが余りにも生々しく正統性が弱いので、
後世の歴史家は、尚徳王は暴君であり、
若年で死に、その子供も幼かったという
創作を付け加え、金丸のクーデターを
止むを得ないアクションと正当化しようとした。
そういう事なのではないでしょうか?




これからの琉球を背負って立つ覚悟だった、
少年王、尚中和は、突如として発生した金丸の
クーデターをどう受け止めたのでしょうか?
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 14:35Comments(0)琉球の歴史

2014年07月31日

・白鳥と犬に育てられた?尚巴志誕生秘話

英雄には、奇妙な生誕伝説がありますが、
尚巴志もその例外ではありません。

尚巴志の母は、美里の子(シー)と呼ばれる
佐敷の有力な豪族の一人娘でした。

美里の子は、一人娘を然るべき地位の男に
与えようと箱入り娘として育てていました。

しかし、娘は美里の子の思惑に反して、
外出の時に偶然に見掛けた
1人の若いサムレーに一目惚れします。
それが苗代大親で、尚巴志の父でした。

二人は、美里の子の目を盗んで逢瀬を重ね
その内に娘は巴志を身ごもります。

それは、父美里の子の知る所となります。

「大事にしてきた娘がふしだらにも
どこの馬の骨とも知れない男の子供を宿している!」

当時の士族に自由恋愛などありません。

尚巴志は私生児と認定されたのです。

娘は禍いが苗代大親に及ぶのを恐れ
父親の名前を決して言いません。

美里の子は怒り、家名に泥を塗ったとして、
娘を斬ろうとしますが、妻がこれを必死で制止。

娘は逃れて、東屋で産気づいて出産
こうして尚巴志は誕生します。

ですが箱入りで育った娘に
子供を育てる力はありません。

泣く泣く、赤ん坊を捨てようと、
アマチジョウガマというホラ穴の前に
尚巴志を置いて立ち去りました。

ところが、捨てられた赤ん坊の前には、
どこからともなく雌の犬がやってきて
乳を与えて育てます。

また、どこからともなく白鳥が飛んでくると
赤ん坊を羽毛でくるんで暖めました。

赤ん坊を捨ててから1週間、、
娘はどうしても我が子が心配になり、
苗代大親と共にアマチジョウガマに
戻ってきました。

すると、そこに白髪の老人が現れ、
「この赤ん坊は成長して琉球を統一する
宿命を背負っておるから天が助けた。
大事に育てるように、、」

と二人に赤ん坊を手渡すと
煙のように消えてしまいました。

二人は、これは神様のお告げに違いない
と確信して、決死の覚悟で
美里の子の元へと戻ります。

美里の子は、激情して娘を斬ろうとした
ものの、そこは愛しい一人娘、
今頃どうしているのか心配でなりません。

そこに娘が赤ん坊と夫を連れて
帰ってきたので、全てを許し
苗代大親を婿として迎えたそうです。

しかし、苗代大親の父、鮫川按司は、
当時から、有力な按司として、
城を築いていました。




美里の子から見ても城主の子である
苗代大親は、娘の結婚相手として異存無かった筈で、
この捨て子の伝説は後世の創作だと思われます。
  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 23:59Comments(0)尚巴志戦記

2014年07月31日

・琉球の帝国主義時代

武器を持たない平和な王国と呼ばれた琉球。
しかし琉球にも、建国当初には外部へと放出される
凄まじい拡張エネルギーに満ち溢れた時期がありました。

それが、1450年代から、
1550年代にかけてのほぼ100年間です。

この時期の琉球は拡張に次ぐ拡張の時代で、
北では、島津氏とトカラ列島臥蛇(がじゃ)島を
境界線に奄美大島の領有権を争います。

尚巴志を最初として、佐敷王統は北限の
領土拡張に熱心であり、尚巴志の王子である
布里(フリ)は、奄美大島を守備し
薩摩の代官千竈(ちがま)氏と激闘を繰り広げ、
これを辛うじて下しています。

また、7代、尚徳王は千竈氏の拠点である
喜界島を2回に渡って親征しています。

佐敷王統をクーデターで倒した
伊是名王統の尚円王の子、尚真大王は、
八重山諸島の攻略に執念を燃やし、
3000の兵で、攻め立てこれを征服します。

こうして、琉球は貿易の富を背景に、
琉球の版図を拡大し、海上面積で言えば
日本列島の3分の2にあたる広大な領域を
手中に収めるのに成功するのです。




琉球の拡張期は、伊是名王統5代、
尚元王の奄美大島遠征で終わりを告げ、
統一薩摩の巻き返しにより、1609年の
琉球侵略を招いてしまいます。  

Posted by 尚巴志スピリッツ at 00:31Comments(0)尚巴志戦記琉球の歴史